織金利雄(鉄道友の会 阪神支部)

はじめに

2010年秋、鴻池新田会所(以下、会所)で行われた『片町線ノスタルジイ』という特別展を観覧した際、『鴻池家所蔵の撮影場所不明写真 いずれも明治30年代頃』と称して右作品(写真1)を含む写真3点が展示されていたのが気にかかり、スタッフの方に断りを入れ接写させていただいた。
その際にも機関車の形状や客車に帯が入っている様子から「関西鉄道か?」など推測を立てていたものの、決定的なポイントを見出すには至らず、そのままPCの中で眠りについてしまった。

ところが観覧から1年が過ぎた昨秋、何気なく画面に出して眺めていると、武田尾温泉付近の地形に酷似していることに気が付いた。
だが現地調査を重ねてなお文献の記述と間に生じた矛盾点を解決できず、再び迷宮入りかと思われたが、とある資料にたどり着いたことがきっかけとなって、今は無き生瀬温泉の旅館と思しき建物から撮影された写真であるらしいと推定するに至った。
なぜ始めに武田尾と間違えたのかも含め、鉄道研究の一分野としてレポートをまとめておきたい。

謎解き『鴻池家所蔵写真

写真1 撮影場所不明として情報提供が呼び掛けられていた写真.鴻池新田会所蔵。

 

武田尾温泉と推定した理由

改めて写真1を見てみよう。画面奥から手前にかけて流れる河川は、山間を縫って逆S字を描いている。
その川幅が一番狭いと思われる場所に④の鉄道橋が架かっており、前後はトンネルのようだ。
鉄道橋より手前で流れが90度変わるあたりの川岸には、屋号を染め抜いたような幕のかかる料亭か旅館風の建物①、その対岸には山の地形に沿ってゆるいS字を描く道②が線路をくぐって奥へと続いている。
おそらく対岸に駅があるのだろう、旅館側と対岸は③の橋で結ばれているが、険しい地形の割に川の水深はそれほどでもないように思われる。

これに対し、武田尾付近の地形図は図1のとおりである。
福知山線が長大トンネルの連続で通過する現在のルートを走るようになったのは1986(昭和61)年で、それまでは武庫川の渓谷に沿って線路は延びていた。
図1はルート付替が完成して間もない1987(昭和62)年の地図をもとに作成したが、旧ルートも点線で描かれ鉄橋の位置も確認できる。
従って当初は写真1を図1に当てはめ、④の鉄橋は第3武庫川橋梁、列車が出ようとしているトンネルは大茂山トンネルで、奥が武庫川上流となることから、武田尾駅到着間近の上り列車を撮影した写真であると考えた。

図1 武田尾温泉付近概略図(丸数字は写真1に対応。 国土地理院発行2万5千分の1地形図『武田尾』 1987年修正測量を基に筆者作成)

図1 武田尾温泉付近概略図(丸数字は写真1に対応。
国土地理院発行2万5千分の1地形図『武田尾』 1987年修正測量を基に筆者作成)

写真2 現在の武田尾温泉付近。2004年の水害後に行われた復旧工事でかなりの変化があった。旧福知山線の線路は温泉街の北側をトンネルで抜け、第3武庫川橋梁で武庫川右岸(南側)に移る。

写真2 現在の武田尾温泉付近。2004年の水害後に行われた復旧工事でかなりの変化があった。旧福知山線の線路は温泉街の北側をトンネルで抜け、第3武庫川橋梁で武庫川右岸(南側)に移る。

とはいえ、撮影から1世紀以上が経過している上、武庫川もかつては毎年のように洪水を引き起こす暴れ川(近年も2004年秋、台風により洪水を起こしている)だったから、復旧工事や治水事業で風景も変化していることが予想される。
そこでまずグーグルアースで閲覧できる航空写真に重ね、写真1の対岸側、逆S字を描く道路は現在もほぼ同じ形状であると推定した。
但し同航空写真には大正時代に創業した旅館(紅葉館)が写っており、先述の洪水で被害を受け復旧した際、敷地全体を囲むように2車線道路が新設されたが、一部は元の道筋に沿って一段高い所に構築している。

写真3 建物①の痕跡と推定した部分。手前の低い石垣と奥の高い石垣(矢印)があったよ うに見える。

写真3 建物①の痕跡と推定した部分。手前の低い石垣と奥の高い石垣(矢印)があったよ うに見える。

写真4 ③の橋の橋台と推定した部分(矢印)

写真4 ③の橋の橋台と推定した部分(矢印)

次に行ったのが現地調査、とりわけ①の旅館と③の橋が存在したと推定される地点における痕跡および④の武庫川第3橋梁橋脚の形状確認である。
現在も①付近には温泉旅館が立地しているが、写真1では川が直角に曲がるまさにその地点に建物があるように見えるため、現在の建物からさらに奥に別の建物が存在したことになる。
さらに床や屋根の高さが違うことから、一つの建物ではなく2つの建物が重なって写っている可能性もある。
そして写真の通りなら、①の建物のすぐ下流側に③の橋の痕跡がなくてはならない。
この推測に従い、現地を調査した結果、確認できた痕跡が写真3と4である。
写真3における石垣は度重なる洪水で大きな水圧を受けたのか、相当部分が削られ消滅しているように見えたのに対し、4の橋台は対岸も含めて痕跡がはっきり残されており、推測の裏付けになると考えた。

武田尾温泉は1641(寛永18)年、名塩村の武田尾直蔵(豊臣の落武者とも言われる)が薪採りの際に発見したと言われ、1887(明治20)年には車源二によって初の近代的旅館である元湯旅館が建てられたが、すぐ近くの宝塚も阪鶴鉄道の開通1などをきっかけに近代的な温泉街へと変貌しつつあった。
その宝塚温泉のとある旅館の明治40年の宿帳によれば宿泊客の7割が大阪府内に住んでおり(その大半が大阪市)、その職業も95%が商人だったという。
また明治以降、鴻池家は銀行業を営んでいたが、当時多くの鉄道会社に出資を行っており、11代鴻池善右衛門氏も明治31年3月時点までに阪鶴鉄道(注)株を350株購入、大株主に名を連ねていた。

また上田竹翁という人物を専属の写真師として抱えており(後述)、彼を同行させて日光や鎌倉の風景も写真に収めているほどの資産を持つ鴻池家だったから、カメラマンひとり武田尾へ連れて行くなど容易いことであるし、自身も社会動向に対する広い視野が求められる銀行業を営む身である。
時代の寵児であった鉄道に関心を寄せ、新路線が開業した直後に商談等を兼ねて列車に乗っても何ら不思議ではない、そう推測したのである。

(注) 阪鶴鉄道は池田(現川西池田)―宝塚を1897(明治30)年12月27日、宝塚―有馬口(現生瀬)を1898年6月8日、有馬口―三田を1899(明治32)年1月25日に開通させた。

 

崩せなかった第3武庫川橋梁、記録と矛盾

ところが、続けて第3武庫川橋梁の形状を調べにかかったところで、記録と写真との辻褄が合わないことに気がついた。
同橋梁の橋桁に関しては小西純一氏他による『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状』に詳述されており、架設されたのは全長120ft、アメリカのA&P Roberts社ペンコイド鉄工所が1898(明治31)年に製造(余談ながらこの工場は後にアメリカンブリッジ社に買収され、余部鉄橋のトレッスル橋脚を製造することになる)したリベット結合プラットトラス1基(図2)となっている。
この橋桁は1952~53年頃に新しい橋桁へ取り替えられ、その後短縮改造を受け新潟県内(弥彦線など)に再架設され今なお現役だが、写真1を見る限り架設されているのはいずれもガーター桁で、本流を越えるらしいやや長いスパンの桁が1基、道路を跨ぐらしい2~3基の短桁に分かれている。
これでは橋桁を支える橋台の形状(写真5)とまるきり違うではないか。

図2 阪鶴鉄道第3武庫川橋梁 (『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状』 参照のうえ筆者作成) スパン37.5m、高さ7.3m。

図2 阪鶴鉄道第3武庫川橋梁 (『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状』 参照のうえ筆者作成) スパン37.5m、高さ7.3m。

写真5 第3武庫川橋梁跡の橋台下路トラス橋を支えるため幅は大きく、逆に支承受けとの高低差は小さいようだ。

写真5 第3武庫川橋梁跡の橋台下路トラス橋を支えるため幅は大きく、逆に支承受けとの高低差は小さいようだ。

この形状の違い、どう解釈すればよいのか。武田尾温泉で間違いないならば、アメリカからの資材の到着が何らかの原因で遅れたため、仮の桁を調達して仮橋脚ともども架設し、開業に間に合わせたりしなかったか。
当時アメリカはスペインと戦争状態にあり(米西戦争)、軍事物資の輸送のため日本に桁を運ぶ船が手配できなかったのではないかと推測したのである。

そのような場合は建設費の膨張や開業後の収支見通しなど、会社の経営に多大な影響を及ぼすため少なくとも株主向けの報告書に何らかの記載が見られるはず。
そう考え阪鶴鉄道の明治31年度分報告書を探し求めていたところ、たまたま尼崎市の地域研究史料館が明治31年下半期(第6回)の報告書を所蔵しているのを突き止めた。
だが報告書では確かに線路延長工事に触れていたものの、有馬口―三田間の建設に関して資材到着遅れによる遅延の記述はなく、第3武庫川橋梁を含む輸入桁を使用した3か所の橋梁工事についても「池田の工場より作業員を現地に派遣し、組立作業を行った」としか書かれていない。
時代を検証し直しても米西戦争勃発は1898(明治31)年だから、この時点で橋桁はアメリカから到着していたことになり、仮桁という可能性は消滅したと考えざるを得なくなった。

 

1枚の写真が疑問を氷解させた

しかしながらその史料館には『阪鶴鉄道解散記念写真帖』なる資料も保管されていた。
線路が国に買収され会社を解散したことに伴う写真集で立派な装飾が施されており、当時の車両や施設など写っていないかと出してもらったのだが、ページをめくれば出てきたのは関係者の顔写真ばかり。

「なんだ卒業アルバムか」と思いつつもめくっていると、どういうわけか沿線観光地の写真だけは挿入されており、その中の1枚に目が釘付けになった。
川沿いには桟敷のある2階建の建物、その右側には写真1にそっくりの橋が架かっており、たもとには国旗の掲揚柱もある。
タイトルは『生瀬温泉』となっていた。しかしながら写真1と6をそのまま重ねると、どちらも左から旅館・国旗掲揚柱・橋の順で写っているのに、写真6では手前に川が写っており真逆の位置関係となってしまう。
だが写真1を写真7のように解釈すれば、この矛盾点はすっきり解消することに気がついた。すなわち写真1は裏焼きされていたのである。

改めて図3で位置を確認してみよう。
それは生瀬駅から南西に数百mの県道51号線(有馬街道)に沿った★の地点で、武庫川と太多田(おたた)川の合流点から太多田川を少しさかのぼった赤子谷川との合流点付近である。
写真6には写真7の隅に写っている2棟の建物の他、右奥の一段高い所にも建物が見られることから、写真7はこの建物から撮影されたとも考えられる。
また列車が通過中の鉄橋に関してもトンネル側の橋台に注目すると、現在残る痕跡(写真8)からも路盤と支承受けとの天地差が大きく、上路桁(レールが主桁の上に来る橋桁)の設置に適した構造であることが分かり、山の斜面に築かれたゆえに橋台の裾が水面に近付くほど絞られているように見える点も写真7と一致している。
太多田川橋梁の全体構造も街道部分は短い桁3基で跨いでいたため(後年、前後に衝突防止ガードが設置された)、橋梁の特徴で写真7に矛盾するところは見当たらないと考えられる。

写真6 生瀬温泉 川沿いには左から宿泊用とおぼしき建物・国旗掲揚柱があり橋も架かっている。欄干や橋脚の数など、一部は道に隠れて見えないが写真7と酷似している。『阪鶴鉄道解散記念写真帖(尼崎市地域研究資料館所蔵資料)』より

写真6 生瀬温泉 川沿いには左から宿泊用とおぼしき建物・国旗掲揚柱があり橋も架かっている。欄干や橋脚の数など、一部は道に隠れて見えないが写真7と酷似している。『阪鶴鉄道解散記念写真帖(尼崎市地域研究資料館所蔵資料)』より

写真7 写真1の本来の向き。

写真7 写真1の本来の向き。

図3 現在の生瀬温泉付近。図中の番号は写真7に対応(Google Earth画像をもとに筆者作成)

図3 現在の生瀬温泉付近。図中の番号は写真7に対応(Google Earth画像をもとに筆者作成)

写真8 太多田川橋梁橋台 トンネルは国道拡幅に伴い閉鎖され、国道側の斜面は切崩しが行われた。

写真8 太多田川橋梁橋台 トンネルは国道拡幅に伴い閉鎖され、国道側の斜面は切崩しが行われた。

写真9 現在の太多田川・赤子谷川合流地点 右奥からの細い流れが赤子谷川。写真7に写っている橋は赤子谷川のすぐ左側に架かっていたはずだが、現在はご覧の通り。

写真9 現在の太多田川・赤子谷川合流地点 右奥からの細い流れが赤子谷川。写真7に写っている橋は赤子谷川のすぐ左側に架かっていたはずだが、現在はご覧の通り。

写真10 現在の写真7撮影地付近(推定)。麓の道路からであるが、福知山線(当時より手前に移設)の橋梁が辛うじて見える。

写真10 現在の写真7撮影地付近(推定)。麓の道路からであるが、福知山線(当時より手前に移設)の橋梁が辛うじて見える。

写真11 太多田川対岸より生瀬温泉跡地と推定される地点を望む。写真7が撮影されたのも、この上にあった建物からであろうか。

写真11 太多田川対岸より生瀬温泉跡地と推定される地点を望む。写真7が撮影されたのも、この上にあった建物からであろうか。

写真12 現在の生瀬宿。西宮街道の宿場町として、また有馬街道の分岐点として江戸時代には繁栄した。

写真12 現在の生瀬宿。西宮街道の宿場町として、また有馬街道の分岐点として江戸時代には繁栄した。

ただ、現地で痕跡を見出すことは今や容易ではない。
写真7では河原のように見える太多田川と赤子谷川の合流点付近も草木が繁茂し(写真9)、県道自体も2車線化や一部直線化など改良が行われたため橋の痕跡は消え失せている(現在は上流に別の橋がかけられている)。
それでもなんとか写真7の撮影地点とおぼしき地点(写真10)近くにたどりつけば、枝を伸ばした木の間から福知山線の橋梁を望むことができた。

 

温泉ブームの現代なら、日帰り浴場くらいにはなりえただろうか?

生瀬に温泉が存在していたこと自体、知る人は少ないであろう。
直線距離で有馬とは8kmしか離れていないため有馬と同じ炭酸泉が湧出しており(宝塚一帯でも炭酸泉は湧出するため、かつてはこれを利用したラムネの瓶詰工場もあった)、地元住民も飲泉などに利用してきた。
これを利用して温泉場を開こうとしたのが地元の森田糺という人物で、大阪の玉木久吉なる人物の賛同を得て1896(明治29)年、温泉旅館を開業した(森田氏は1899年3月時点で阪鶴鉄道株を25株保有していたためある程度資産をもつ人物だったと思われるが、単独では開業資本を準備できず、出資を募ったと考えられる)。
だがのちに大阪・明盛館館主渡辺福松氏に引き継がれたものの総じて経営は振るわず、僅か数年で休業に追い込まれたという。

かように短命に終わった生瀬温泉の資料はほとんど残っていない。
筆者が当たった資料にも上記のような趣旨の短い文章が見られた程度で、建物の配置はおろかいつ頃経営者が交替し、いつ頃閉鎖されたのかなどは一切不明である。
ただ1896年といえば阪鶴鉄道も宝塚にすら達しておらず、有馬街道沿いとはいえ近代的な交通機関の恩恵が受けられない場所とあっては、採算をクリアするのは容易ではなかっただろう。
しかしながら1898年になって阪鶴鉄道は有馬口(生瀬)に達し、ここで下車して有馬温泉に向かう湯治客で生瀬はひと時の繁栄を見せたと言われるため、経営者が交替し温泉旅館の再生を期したのもこの年ではなかったか。
だがその賑わいも長くは続かず、武庫川沿いの難工事を克服した阪鶴鉄道は翌年の1月に三田へ達し、湯治客も三田から比較的平坦な道を辿って有馬温泉を目指すようになって、生瀬も賑わいから外れてしまった。
明治も末期になれば三田から有馬鉄道(のちの国鉄有馬線 現廃止)も通じたため、温泉場として生瀬が再起する可能性は事実上、潰えたであろう。

逆にそうであるならば、この写真が撮影された時期は非常に限定されることになる。
旅客列車が写っていることから1899(明治32)年1月の開業後であることはほぼ間違いないが、『数年をもって閉鎖』という記述も正しいならば1901(明治34)年頃には休館したことになるため、撮影された期間はその僅かな間となる。
かような時期に鴻池善右衛門氏も上田竹翁氏を伴って訪れ写真を撮影して帰ったものの、年月を経るうちに撮影場所等の記録は散逸してしまい、たまたまネガ(ガラス板)だけが現在まで残されていたのであろうか。
明治期の鉄道記録写真として知られる岩崎・渡辺コレクションでも撮影日や場所が明確である事実を思えば、プロの写真家である以上記録を怠るなど考えられないのである。

とはいえ、筆者も何度も写真を眺めていて、写真家のセンスとも言える構図に感嘆するところが大きかった。
温泉場の紹介を1枚の写真で済ませなければならないならば、ふつうは写真6を選ぶであろう。
しかしここでもう1点写真を掲載できるとすれば、写真7のようなものを選ぶと温泉地の印象は随分変わってくる。
『近くに汽車も走っている。交通至便な温泉地である』という証明にもなり、夏場なら川風に吹かれて夕涼みもでき、避暑の好適地にも見える。
1~2時間に1本くらいだったであろう列車通過を待って撮影している点を取っても単なる物好きではなく「汽車が通過している様子を写し込めば印象がずいぶん変わる」という感性が働いたと考えられないだろうか。
写真術には絵画的(美的)センスも欠かせないが、竹翁氏も技芸両面に秀でた人物だったに違いない。

さらに筆者には、裏付ける資料はないものの『阪鶴鉄道解散記念写真帖』に掲載されていた生瀬温泉の写真(写真6)も、同じ竹翁氏の腕によるものではないかという推測が浮かんできた。
写真帖の方には人物写真を含め撮影者の氏名は一切記載がなかったが、竹翁氏は鴻池家と深い関係があっただけでなく当時の写真界を代表する人物で、一つ上の兄は写真の資材を扱う会社を経営している。
阪鶴鉄道が社内あるいは広報で使用するため沿線の観光地撮影を依頼し、竹翁氏あるいは弟子が生瀬を訪れ、その様子を聞いたことがきっかけとなって鴻池氏も生瀬に足を運んだのではないか…そのようなイメージも膨らんでいく。
ただし文中で触れたとおり、筆者は「生瀬温泉から撮影された写真であろう」と推定を行ったに過ぎず、温泉場がどのような歴史を辿ったのかも、開業や経営に関わったとされる人物の具体像も掴むことができなかったため、これらに関しさらなる手掛かりが見つかることを願っている。

 

謎解き『鴻池家所蔵写真』 PDF版ダウンロードはこちら

 

参考

国土地理院発行2万分の1地形図「生瀬」(明治44年),「武田尾」(大正14年)
阪鶴鉄道株式会社1899「阪鶴鉄道第6回報告書」(尼崎市地域研究史料館蔵)
阪鶴鉄道株式会社1907「阪鶴鉄道解散記念写真帖」(尼崎市地域研究史料館蔵)
宇田 正・畠山秀樹2001「歴史都市圏大阪への新接近」嵯峨野書院
生瀬自治会2008「生瀬の現代史(1)
小西純一ほか1988「明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1988/08-0134.pdf

協力

尼崎市地域研究史料館