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【画像】石原裕次郎の若い頃がイケメンすぎ!昔の出演作品や経歴を時系列まとめ!


俳優として幅広く活躍している石原裕次郎さん。

その若い頃の姿がイケメンすぎると話題なんです!

さらに、若い頃にどんな出演作品に出て、どんな経歴を辿ってきたのかも気になりますよね。

そこで今回は、

  • 石原裕次郎さんの若い頃のイケメン画像
  • 若い頃の出演作品や経歴
  • 若い頃と現在の髪型比較

についてまとめました!

目次

【画像】石原裕次郎の若い頃(昔)がイケメンすぎ!

俳優として多くのファンを魅了してきた石原裕次郎さん。

その若い頃がイケメンすぎると話題なんです!

フクイくん

歳を重ねてもイケメンだけど!

早速、石原裕次郎さんの若い頃の画像を見てみましょう。

イケメン!爽やかすぎる!

見つめられるとドキドキします。

石原裕次郎さん、若い頃から色気があってかっこいいですね!

石原裕次郎の若い頃(昔)の出演作品や経歴を時系列でまとめ!

若い頃からイケメンな石原裕次郎さんですが、現在までどんな経歴を辿ってきたのか、時系列でまとめてみましょう!

20代の頃

20代の石原裕次郎さんはどんな経歴を歩んできたのか、まとめてみました。

20代の石原裕次郎さんの経歴まとめ

・1956年(22歳):映画『太陽の季節』で俳優デビュー

・1956年(22歳):映画『狂った果実』で主演と主題歌を務め、歌手デビュー

・1956年(22歳):映画『乳母車』で主演、製作者協会新人賞を受賞

・1957年(23歳):映画『嵐を呼ぶ男』で主演、主題歌も担当

・1957年(23歳):映画『勝利者』に出演、ブルーリボン賞 新人賞を受賞

・1960年(26歳):女優・北原三枝(本名:石原まき子)さんと結婚

・1962年(28歳):日本初のロードムービー『憎いあンちくしょう』で浅丘ルリ子さんとW主演

・1963年(29歳):石原プロモーションを設立し、第1弾製作映画『太平洋ひとりぼっち』に主演

・1963年(29歳):セイラーとしてトランスパシフィック・ヨット・レースに参加

大学在学中から俳優を目指し、オーディションを受けるも不合格が続いた石原裕次郎さん。

1956年、実兄である、作家の石原慎太郎さんの芥川賞受賞作品『太陽の季節』の映画化の際、慎太郎さんの推薦によりこの映画での端役でようやくデビューが叶いました。

狂った果実』でも石原慎太郎さんの短編小説が映画化され、石原裕次郎さんが映画初主演!

また、この作品で主題歌「狂った果実」を歌い、190万枚を売り上げる大ヒットとなりました。

フクイくん

俳優としても歌手としても、デビューしたのは22歳の時だったのか!

1963年、29歳の若さで石原プロモーションを設立した石原裕次郎さん。

「大手映画会社に出来ない作品を作る」という理想のもとに製作を開始します。

独立後の第1弾は、海洋冒険家の堀江謙一さんをモデルとした映画『太平洋ひとりぼっち』でした。

この映画で、

  • 第18回文化庁芸術祭映画部門 芸術祭賞
  • ブルーリボン賞 企画賞
  • キネマ旬報ベストテン 第4位 

等を受賞、また第17回カンヌ国際映画祭のンペティション部門に出品もされたのです。

プライベートでは、1960年 石原裕次郎さんが26歳の時に女優・北原三枝さん(本名:石原まき子さん)と結婚しました。

2人の馴れ初めは、1956年、まだ無名だったデビュー前の頃に日活のスタジオで出会い、恋に落ちたそうです。

そして何度か共演し恋仲となった2人ですが、トップスター同士の恋愛であった為、一時は会社に反対されつつも最後はめでたくゴールインとなりました。

ちなみに日本で初めての記者会見を行ったのがこの2人だと言われています。

30代の頃

30代の石原裕次郎さんの経歴も見てみましょう。

30代の石原裕次郎さんの経歴まとめ

・1967年(33歳):映画『夜霧よ今夜も有難う』で主演、主題歌も担当

・1969年(35歳):映画『栄光への5000キロ』で製作、主演

・1970年(36歳):映画『富士山頂』で製作、主演

・1970年(36歳):映画『ある兵士の賭け』で製作総指揮、出演

・1971年(37歳):結核を患い療養

・1972年(38歳):ドラマ『太陽にほえろ!』シリーズで主演

・1973年(39歳):映画『反逆の報酬』で主演

1970年の石原プロ制作の映画『ある兵士の賭け』は、第28回ゴールデングローブ賞 外国映画賞にノミネートされた作品です。

前作『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』と興行的に成功を収めたことから、海外での上映に向けた第一弾として制作されました。

フクイくん

映画を製作する機会も増えて、ますます魅力的になっていくなぁ~

現在では日本の刑事ドラマの金字塔とされる作品でもある『太陽にほえろ!』ですが、放送開始は1972年です。

新人や無名俳優を主役級扱いで出演させ、成長を描き、やがて殉職していくというスタイルでたくさんのスターが生み出されました。

石原裕次郎さんは撮影途中、病気で入院することになってしまい、渡哲也さんに代役を任せましたが「健康な状態での復帰が望めない」として降板の申し出をしました。

1986年の最終回に復帰し、番組のテーマともいえる生命の尊さをアドリブを交えながら訴え、物語をしめくくったのです。

40代の頃

40代の石原裕次郎さんはどんな経歴を辿ってきたのでしょうか?

40代の石原裕次郎さんの経歴まとめ

・1976年(42歳):ドラマ『新・座頭市』に出演、主題歌も担当(~1977年)

・1978年(44歳):舌下潰瘍で手術、悪性腫瘍(舌癌)と診断

・1978年(44歳):ドラマ『大都会』シリーズで製作、出演(~1979年)

・1979年(45歳):ドラマ『西部警察』シリーズで製作、出演、主題歌を兼任(~1984年)

・1979年(45歳):舌下白版症と診断、再手術

・1981年(47歳):大動脈解離で手術

・1982年(48歳):アニメ映画『わが青春のアルカディア』で声優を務める

これまで映画中心に制作を行ってきた石原プロですが、初めて本格的にテレビドラマ制作を手掛けたのが『大都会』シリーズです。                                                                                                                                

シリーズpartⅢまで続きましたが、もっとスケールの大きな作品を望んで設定やキャストをほぼ後の『西部警察』に引き継ぎ、制作を行うことを発表しました。

この頃の石原裕次郎さんは、過度な飲酒と喫煙が原因で舌癌と診断され入院、手術も行っていますが、癌であったことは本人には告知されなかったそうです。

フクイくん

病気と治療を繰り返しながらも作品を作り続けた石原裕次郎さんはさすが!

1979年から1984年にかけて放送された『西部警察』シリーズ。

大規模なセットを組んだアクションを重視した為か、撮影中の演者やスタッフの怪我や事故も起こっていたようですよ。

石原プロといえば、撮影用のバイクや車、機材もすべて自社で保有していたことでも有名です。

共演した当時まだ若手だった舘ひろしさんは、石原裕次郎さんのことを

裕次郎さんは文字通り“太陽”みたいな人で、まず怒ることがないし、他人の悪口は絶対に言わない。

と、繊細な心の持ち主で懐の深い人だったことを語っています。

1984年、50歳で肝細胞癌が発覚しハワイで療養をしていましたが、体調が悪化し緊急帰国した石原裕次郎さん。

肝性脳症が原因で52歳の時にお亡くなりになりました。

石原裕次郎の若い頃(昔)の髪型は?

石原裕次郎さんは若い頃どんな髪型だったのでしょうか?

若い頃の髪型は短めのスポーツ刈りです。

さすが昭和の大スターと言われる石原裕次郎さんだけあって、髪型をマネする男性は多かったようですよ。

「裕次郎カット」という呼び方もあるみたいです。

フクイくん

若い頃の髪型も素敵!似合う!

そして、40代はオールバックにしています。

刑事ドラマで刑事たちを取りまとめる役どころが多かったので、髪型もビシッと決めていたのでしょうか。

貫禄と渋さが際立っていますね。

様々な髪型を経験してきた石原裕次郎さんですが、どんな髪型でも似合っていますね!

若い頃からイケメンで、第一線で活躍し続けてきた石原裕次郎さん。

とてもかっこいい人生を歩んだことがわかりました!

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